銀座の街研究会は銀座の街の歴史をさまざまな角度から検証し、一部を公開しています。
徳川家康が江戸に幕府を開いてからの城下町となる。それまでは海だったが大部分はこのときに埋め立てて作られた。家康は能が好きだったため観世、金春の能楽師たち、あるいは狩野派の絵師達を江戸に呼び、銀座に住まわせた。現在も金春通りなどその名が残っている。
明治に入ると文明開化により西洋文化が入ってくるようになり、明治5年の大火をきっかけに銀座の街は煉瓦街となる。
昭和の初めにはカフエーなど西洋の文化が一層生活圏に浸透し、文豪などが銀座に集うようになる。
その後戦後にはキャバレーなどが銀座通りを席巻し、銀行街、ブランド街など様々な様相を見せながら常に日本の最先端の街としてありつづける。
現在の銀座とゆかりのある歴史
- 銀座といえば柳が有名だが、理由として煉瓦街が出来た明治の銀座通りではかつては埋め立てて作られた土地だったため、水はけが悪く桜や松は育たず柳が植えられた。銀座通りが整備された1921年(大正10年)並木はバッサリ切られる。
- 銀座八丁目博品館は明治32年(1899年)から博覧会出品の品々を売る観工場だったが昭和に銀座パレスというキャバレーに変わる。昭和53年(1978年)同じ敷地に銀座博品館を建てた
- 銀座八丁目天國ビルはかつてはビアホールの草分け恵比寿ビアホールだった。昭和初期に天國に変わる
- 銀座八丁目に創業した資生堂は明治五年(1973年)近所の医師から処方せんを受けて薬を調合する薬局を開業したことから始まった。その後医薬品とともに化粧品を販売する。現在の本社は七丁目で三ツ星のロオジエがあるビルである
- 銀座六丁目の交詢社ビルは日本最初の社交倶楽部として明治13年建てられた。
- ライオン銀座七丁目は現存する最古のビアホールの一つで設計した菅原栄蔵はフランクロイドライトの元で帝国ホテルを設計した
- 銀座通りでずっと同じ場所で商いしているのは五丁目の大黒屋さんと二丁目の越後屋さんなとごくわずか。最も職種は時代で変わり大黒屋さんはもともと清月堂さんなどにおろす鶏卵商だった
- 銀座五丁目の鳩居堂さんは天皇遷都の際同行してきた宮中御用達の薫香、筆墨の製造販売会社である
- 銀座と汐留の間には現在は高速道路があるがかつては汐留川が流れていた。1603年に街道の起点として日本橋がかけられてから中橋、京橋、と続き、江戸から通じる東海道で四番目に新橋がかけられた
- 1872年、銀座の煉瓦街と歩調を合わせるように日本始めての鉄道が横浜、新橋間で開通した。横浜に降り立った外国人たちは新橋まで鉄道に乗り、新橋からとことこ歩いて霞が関に向かって行った。駅から降り立った時に見える光景が近代の街であるよう、明治政府は国策で銀座を煉瓦街にした
- 全国で「〇〇銀座」と名のつく商店街は約600ある。
- 銀座1丁目には奥野ビルという古風の建物があるがここは日本初のエレベーター付き住宅だった。現在は無数のギャラリーが入りアートの世界では外せないビルとなっている
- 年越しそばは昔、金座・銀座で金銀を吸い取るのにそば粉を使用した所から縁起のよいものと珍重されていた。その後そばはたんぱく質、ミネラル、ビタミン、ルチン等が豊富でこれを食すれば高血圧や糖尿病が予防できる事を知り、事の初めや終わりに進んで食べられるようになった
- 銀座3丁目には銀座教会がある。明治6年にキリスト教が解禁となりアメリカから5人の宣教師が横浜に降り立ち、彼らを中心とした日本美以教会は礼拝堂の銀座教会、専門書として4丁目の教文館、教育として青山学院などを築いた
- 銀座にもついている「座」というのは仲間集団や同業者組合の意味で、歌舞伎座、南座などというのは、元は劇場の名前ではなく、出演していた役者集団の名前であった。銀座は両替商ギルド、阿波座は徳島出身者といった意味である。
- 銀座の氏神さまは日枝神社と鐵砲洲稲荷神社。王子製紙あたりから上が日枝神社、歌舞伎座のほうに向かって鐵砲洲、鐵砲洲の方はもともと海だった地域が多く海運安全のご利益がある
- 銀座はもともと島だったため銀座に来るためには橋を渡らなければ入って来れなかった。だから銀座の周りには新橋、京橋、数寄屋橋、三原橋など様々な橋がつく地名がある。
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